korekarayukumitiのブログ

長きにわたり探してきた道は、天から降りてくる梯子を
一歩一歩上っていくことだった。

蝶々先生

ショパン「幻想即興曲」 羽田健太郎



☆蝶々先生



 新学期になって、新しく担任になった若い先生が、教室に入ってくるなり、
「おお、花の香りがする。春だなあ」
 そう言って、深呼吸しながら窓辺に歩み寄っていった。女の子たちがそれを見てくすくすっと笑った。
先生は笑った女の子たちの方を振り返ると、
「なあんだ、香水だね、この香りは。花の匂いにしては、早すぎる気がしたんだ」
 そう言って教壇に立った。
 教室に香水の匂いが立ちこめたのには、女の子たちの間に次のようないきさつがあった。
 若い教師の心を 惹きつけようとしたとか、そんなロマンチックなものではない。
 クラスで人気者の栗木ナツコが、昨日登校するなり、家の中に蝶が入ってきて、自分のランドセルに留まって、しばらくじっとしていたと自慢したのだ。まだ蝶の出る季節ではない。その蝶が家に飛び込むだけでも珍しいのに、自分のランドセルにとりついて離れなかったと、ナツコは夢見る表情で語ったもので、蝶が女の子たちの間にことさらなものになって耀きだした。その報告をするナツコの瞳の可愛らしさといったら、蝶以上に、ナツコが 蝶になったようなものだった。
 ナツコは「栗ナッコ」という愛称を持っていた。瞳のくりくりっとした可愛らしさを、姓の栗木の栗にひっかけていた。
「栗ナッコが買い食いしたシュークリームでも、ついていたのよ」
 と一人の女の子が言った。
「私、学校の帰りに買い食いなんかしたことないもん」
 とナツコは言った。
「そんなの、香水をふりかけておけば、蝶なんて集まってくるよ」
 と別な女の子が言った。
「あんたのぼろのランドセルに、いくら香水振りかけたって、蝶々なんて、来ないよ」
 と乱暴な口をきくことでは定評のある、クラスで一番長身の女の子が言った。
「おばあちゃんに、新しいのを買ってもらったからって威張らないでよ。ばあちゃん子のくせして」
 二年前に祖母を亡くしている子供が腹立たしげに言った。
「どんなランドセルだって、蝶が来て留まったランドセルが一番いいのよ」
 ナツコはそう言って、ようやく話を自分のランドセルに引き戻した。
「その話は、明日聴かせてね。匂いをつけてきて、白い蝶も黄色い蝶もみんな私のランドセルに集めて見せるから」
 それが昨日の話である。そして今日、女の子たちは思い思いに匂いをつけて登場したのだった。姉や母親のブランドものの香水を匂わせてきたものがあれば、家の花瓶の花を抜き取って、ランドセルに忍ばせて来たものもあった。
 そして最初にひっかかったのが、新学期開始の授業に登場した、この若い教師だったのである。



    ☆

×

非ログインユーザーとして返信する